富士山・手打ち蕎麦学会株式会社ツタウェル

ごあいさつ

小林、土屋両氏から学んだ数々の手打ち蕎麦の打ち方、捏ね方、切り方等々数えきれ ない技を一人でも多くの人に伝えられたらと、当学会を立ち上げ、蕎麦打ち講習会も 開催し、蕎麦の美味しさ、楽しさ、また、簡単に作れることなどを惜しみなく伝授!
現在、SBS学苑イーラde沼津校に於いて、蕎麦打ち教室『二八蕎麦・粗挽き蕎麦を 打つ』の講師も務めるなど、「手打ち蕎麦の伝道師」としても積極的に活動中!

  

講師紹介

〈蕎麦切りこばやし〉 元店主 小林孝氏

「蕎麦粉と水だけだから余計に難しい。誤魔化しが効かない。」と小林氏。
粗挽き蕎麦の先駆者・小林氏から学び教わったことが現在、美味しい手打ち蕎麦 作りへと繋がった。手打ちそば講習会を開催するに至った経緯がここにある。
蕎麦のみで天婦羅は無しの、徹底した蕎麦へのこだわりが、一体どれだけの人をと りこにして来たのだろう。
2016年7月閉店後、富士山手打ち蕎麦学会講師として参加。

〈手打ち蕎麦 つち也〉 元店主 土屋文明氏

富士宮市内から15kmほど離れた上井出に営業していた名店、〈手打ち蕎麦・つち 也〉の元店主、土屋文明氏。
ストーブが暖かみを醸し出す店では、自然とお客同士が仲良くなり、飲み明かした り、旅行に出掛けたりと気の置けない寛げる感じのアットホームな雰囲気。
これも店主土屋氏の気さくな人柄のなせる業。
山菜取りが得意な土屋氏の作る天婦羅も、ファン垂涎の逸品と折り紙付きだっ た。店を閉店後、今回富士山手打ち蕎麦学会講師として参加。

〈富士山手打ち蕎麦学会〉 会長 勝亦章司

小林、土屋両氏から学んだ数々の手打ち蕎麦の打ち方、捏ね方、切り方等々数えきれ ない技を一人でも多くの人に伝えられたらと、当学会を立ち上げ、蕎麦打ち講習会も 開催し、蕎麦の美味しさ、楽しさ、また、簡単に作れることなどを惜しみなく伝授!
現在、SBS学苑イーラde沼津校に於いて、蕎麦打ち教室『二八蕎麦・粗挽き蕎麦を 打つ』の講師も務めるなど、「手打ち蕎麦の伝道師」としても積極的に活動中!

二八蕎麦・粗挽き蕎麦を打つ SBS学苑|やりたいこと、きっと見つかる!
静岡県のカルチャーセンター

蕎麦打ち講習会

富士山手打ち蕎麦学会は、定期的に蕎麦打ち講習会を開催しています。
事前にご予約いただければ、どなたでも参加していただけます。
準備していただくのは、エプロンのみですから、蕎麦打ちは初めてという初心者の方でも安心ですよ。
開催日は毎週土曜日。
また、ご指定の場所へ講師がお伺いする、出張講習会も可能です。

参加費(道具類貸与費、材料費を含む)

  • ◆教室講習 一名 3,500円
  • ◆出張講習 一名 5,000円(富士、富士宮市内)
  • ※3名以上でお申し込みください。
  • ※富士、富士宮市外への出張はご相談ください。
  • ※講習場所施設は、申込者側でご用意ください。水回り、火元等、調理の可能な環境が必要です。
  • ※講習場所施設に関する経費は、申込者側の負担となります

ご予約・お問い合わせ株式会社ツタウェルTEL.0544-26-1100
※メールによる講習会の受講予約は受け付けておりません。
お電話のみの受付けとなります。

《SBS学苑の蕎麦打ち教室のお問い合わせは下記まで》
●SBS学苑イーラde沼津校 TEL:055-963-5252
二八蕎麦・粗挽き蕎麦を打つ SBS学苑|やりたいこと、きっと見つかる! 静岡県のカルチャーセンター
◇SBS学苑 二八蕎麦・粗挽き蕎麦を打つ
講習会開催日 日程
3/26、5/28、7/23、8/24、11/26、1/28、3/25 ※いずれも土曜日
13時~16時

道具の手引き

蕎麦打ちに欠かせない様々な道具たちがあります。こういう物を揃えると、ワクワ クしてテンションが上がるもの。だから道具やスタイルから入るのも全然ありです w。蕎麦打ち必需品を、分かりやすく実用的に解説。お手頃価格で販売もしますよ。
道具は、ネットでも販売されていて、簡単に購入できますが、やはり実際に手にとっ て、自分に合った物を選ぶのがお勧めです。

※石臼挽き蕎麦粉、蕎麦の実、打ち粉は、価格の変動がありますので、発注前にお問い合わせください。

  • 厳選された蕎麦の実で挽く
    16メッシュから60メッシュの粉

  • 手挽き石臼

  • 電動石臼

  • 手挽き石臼で挽いた
    16メッシュの蕎麦

  • 電動石臼で挽いた
    60メッシュの蕎麦

産地別にじっくり挽きます

北海道 長野県 茨木県
福井県 山形県 群馬県

粗さ(メッシュ)500g 1,000g
60メッシュ900円1,700 円
30メッシュ1,000円1,800円
20メッシュ1,100円1,900 円
10メッシュ1,200円2,000円
●丸抜き蕎麦の実(産地各種)
500g900円
1,000g1,700円
●打ち粉
300g500円
500g700円
1,000g1,200円

蕎麦四方八方話

◆其の六 時代小説と蕎麦 ~江戸に長逗留した旅人、池波正太郎~ (下)

池波作品の中の蕎麦食いの場面は、その品書きだけで食に対しても粋を重んじた江戸の文化が香ってくるようです。
細打ちの蕎麦を「白髪蕎麦(しらがそば)」。
山芋を出汁でやわらかく摺りあげ、蕎麦へかけた「泡雪蕎麦(あわゆきそば)」
単に「ねぎ蕎麦」、「とろろ蕎麦」などと呼ばない、江戸っ子の美学が、実に心地良いではありませんか。

粋と言えば、仕掛人シリーズの『梅安晦日蕎麦』には、こんな場面があります。
梅安と相棒の彦次郎が、大晦日の夕刻、例年の如く連れだって馴染みの蕎麦屋へ年越し蕎麦を食べに出掛けようとしたちょうどその時、梅安の菩提寺から若い僧と寺男が、大八車に道具や材料をいっぱいに乗せてやって来て、「失礼ながら、心ばかりの」と、 梅安、彦次郎が瞠目するほどの手際の良さで蕎麦を捏ね、打ち、柚子の入った柚子切り蕎麦まであっという間に作り上げたかと思うと、 「それでは、お正月のおいでをお待ちしております。」と言い残して立ち去ってしまう。
「驚いたね。どうも・・・」呆気にとられた二人が、しかし、梅安がしみじみと 「何にしてもありがたいことだ…」と感謝を口にする、という件です。
まぁ早い話がこれは、日頃少なからぬ布施を欠かさない檀家の梅安への、寺からのお歳暮なワケですが、僧たちが、本来の仏事のみならず、嗜みとして蕎麦打ちを心得ており、 しかも相手に遠慮も恐縮もする暇さえ与えずに引き揚げてしまう、その立ち居振る舞いのスマートさに思わず「かっこいい!」と感じるのと同時に、そのさりげない人の情けに、仕掛人としての緊張をそっと解かれる想いに、思わず静かに感謝を口にする梅安の胸の内・・・
情景が鮮やかに浮かぶ、これだけの場面を、まったく無駄なくたった数行で描き切る池波先生の筆致の見事さには舌を巻く他ありません。

さて『剣客商売』では、秋山小兵衛の女房お春が、盛り蕎麦に鶏卵の黄身だけを選り 分け、それに蕎麦を絡めて器用に手繰る場面があったり、同じく同作で小兵衛や、倅 大二郎に、蕎麦屋で酒の肴に蕎麦掻を食べさせていて、これもまたついつい今夜は自分も蕎麦掻でも拵えて酒の肴にしよう、などと思ってしまうほど、実に旨そうなのです。

酒の肴と言えば、池波先生は呑兵衛には誠に嬉しい言葉を残されています。
曰く「酒を呑まないやつは、蕎麦屋に入る資格は無い」「酒を呑まないなら、私は蕎麦屋になど入らない」というものです。
まぁ、これは下戸の方にしてみたら、ずいぶん横暴な話だとお思いになるでしょうが、 氏は昼下がりの散歩の途中、よくふらりとお気に入りの蕎麦屋に入って昼呑みを楽しんでいたそうで、「昼間に酒を呑むなら、蕎麦屋に限る」と発言されていたそうです。
また「良い蕎麦屋」の条件として、「良い酒を置いていること」ともされていたそうで、 よく、わさび芋 板わさ 鳥わさ 焼き海苔 玉子焼きなど、日によって様々に肴(この肴のことを、蕎麦の前に食すもの、蕎麦前と称するそうです)を選び、ゆっくりと酒を口にして二合ほどを時間をかけて愉しみ、夕刻が近づいて店に客の姿ががちらほら見え始めたら、盛りを一枚誂え、サッと手繰って外出て、まだ明るさの残る中を帰路につく、のだそうです。
日頃いたずらにあくせくしているばかりの私なぞは、なんとも優雅で贅沢な時間だなぁと思ってしまいます。

平成2年5月3日、急性白血病により、67歳で逝去した氏の葬儀が、同6日、千日公会堂で営まれ、その際同じ作家仲間の山口瞳氏が、後々語り草となる弔辞を読みました。

「先生は根っからの旅人で、いつも旅をされておられたが、特に江戸に長逗留をされた。」

池波先生への弔辞としては、これ以上ない素敵な言葉で、
先生、きっと天国で照れながら「やられたな」と頭を搔いておられたのではないだろうか。

    

◆其の五 時代小説と蕎麦 ~江戸に長逗留した旅人、池波正太郎~ (上)

蕎麦が好きで、時代劇、時代小説が好き、という方なら、絶対に避けて通れない偉大な作家。
言わずと知れた巨匠、池波正太郎先生です。
江戸本所菊川、鐘ヶ淵、品川台町、と聞いてすぐに合点がゆく方は、筋金入りの池波フリークでしょうね。w 
この三か所は、それぞれ池波先生の代表作の主人公、火付け盗賊改め方長官、長谷川平蔵、稀代の達人剣客、秋山小兵衛、凄腕仕掛人の鍼医、藤枝梅安の住まいがあった場所です。
私は、特に時代小説や歴史小説のファンというわけではありませんが、池波作品にだけは中学生の頃から惹かれておりました。
理由は単純、テレビや映画で映像化されて大ヒットした、誰もが知る作品の原作だからです。
『鬼平犯科帳』、『剣客商売』、『仕掛人・藤枝梅安』の三シリーズは特に人気が高く、半世紀以上の長きに渡って繰り返し映像化されているため、主人公を演じる俳優も多岐に渡ります。
特に1972年秋からテレビ放映が開始された『仕掛人・藤枝梅安』を原作とする『必殺仕掛人』の主人公、鍼医の凄腕殺し屋、藤枝梅安を演じた俳優は、初代の緒形拳を始め、田宮二郎、小林桂樹、萬屋錦之介、渡辺謙、岸谷五朗、豊川悦司(2023年公開)と7人に上ります。
池波先生が原作の作品はシリーズ一作目の『必殺仕掛人』だけなのですが,、このあと同シリーズは『必殺仕置人』『必殺仕事人』など、必殺シリーズとして現在に至るまで放送される長寿番組になっているほど。水戸黄門や、大岡越前、徳川吉宗の様に実在の人物を主人公にした時代劇を除くと、これは稀有な例です。

私は、池波作品の魅力はやはりその高い娯楽性にあると思っています。
表現が単純すぎて誤解されることを恐れずに申し上げれば、純粋に小説として面白いのです。
作品を読むと、氏が机の上だけで書いていないことが伝わってきます。
現代にはもう存在しない「江戸」を舞台にしながら、その筆の端々に氏が江戸の市井を歩き、眺め、またある時は食して、材をとっていることがよくわかります。
机に向かい、様々な文献のページを繰って、時代考証などにばかり時を費やしていただけでは、あの空気感を醸成出来るはずはありません。
少々乱暴な言い方をお許しいただければ、氏の小説は、いたずらに小難しくないのです。
時代小説、歴史小説の大家、巨匠と称される方々は他にもたくさんおられると思いますが、こと江戸を描かせたら、池波正太郎ほど作品の隅々にまで漂う「江戸臭さ」を醸し出す作家は無いと、私には感じられるのです。
氏の作品の主人公たちが、かくもイキイキとして感じられるのは、彼らが現実に江戸の町に生きているからです。そしてその江戸の町に、外ならぬ池波正太郎も生きているからです。
千の文字を費やすよりも雄弁に、場面の転換や人物の心中を物語る一本の行間は、安楽椅子作家に書けるものではありません。
冒頭に記した「長谷川平蔵」「藤枝梅安」「秋山小兵衛」の住まい。これを良くご存じの読者ならば、ほとんどの方に頷いていただけると思うのですが、 池波作品の大きな魅力の一つに酒食シーンの描写があります。
氏は作品の中で、鬼平や梅安、彦次郎、秋山父子に実に様々な旨いものを食べさせています。

鰹の刺身、鰹飯、深川飯、兎汁、鮪トロの炙り焼き、軍鶏鍋、大根と浅利の小鍋だて、大根と油揚げの鶏出汁小鍋だて、白魚の卵とじ、芋酒、芋膾、味噌田楽、菜飯、冷やし味噌汁、なめろう、焼き鮎入り湯豆腐、蝦蛄の煮つけ 等々・・・池波作品には、枚挙に暇がないほど、そして名前を聞いただけでは、現代では馴染みのない品まで含めて、でも旨そうなものがズラリと並びます。
池波作品中の酒食シーンには想像以上にファンが多く、それぞれのシリーズ別に、登場する料理の作り方と周辺蘊蓄を語るレシピ本(『鬼平料理帳』、『梅安料理ごよみ』等)が出版され人気を博しているほどです。

さて、そしてその池波作品中には頻繁に「蕎麦」が登場します。
それも池波先生は実に様々な方法で、主人公たちに旨そうに蕎麦を啜らせている。
これは、とりもなおさず池波先生ご自身が大の蕎麦好きだからに外なりません。
そりゃそうだ、東京は浅草生まれ浅草育ち、チャキチャキの江戸っ子ですものw
作品中の蕎麦のシーンには、やはり池波流の蕎麦の美学が溢れています。

鬼平犯科帳の中で長谷川平蔵が食べる蕎麦に源兵衛橋の北詰にある「さなだや」という店の「小柱の掻揚げ蕎麦」というのがあります。これが鬼平シリーズで初めて長谷川平蔵がそばを食す場面らしいです。小柱というのはバカガイの貝柱のこと、軟体部は青柳と呼ばれる鮨でもお馴染みの貝ですが、ただ「天ぷら蕎麦」でなくて、これの掻き揚げの乗った蕎麦って、いかにも普段から町を歩き回って、旨いものを見逃さない池波先生らしいチョイスw 

また一方では、こんな記述もあります。

「下谷の車坂町代地に[小玉屋]という小さな蕎麦屋がある。
いかにも頑固そうな五十がらみの亭主と女房と、一人息子と三人だけでやっているのだが、蕎麦は太打ちの黒いやつで、薬味も置いてなく、流行の貝柱のかき揚げを浮かせた天麩羅蕎麦などはもちろんのこと、種物は、いっさい出さぬ。
ただもう、太打ちの田舎蕎麦一筋にやっているので、常客といえば、ごく限られてしまうわけだが、
「十日も口にせぬと、思い出すというやつだ。」と、妻の久栄にもらしたことがあるほどに、長谷川平蔵は小玉屋の蕎麦を好んだ。」(『鬼平犯科帳・蛇の目』)
池波作品には、この三シリーズだけでも蕎麦の登場する場面が多くあり、その描写は蕎麦好きならずとも垂涎必至です。

次回は江戸っ子がことさら大事にし、氏もまた著作の中で大切にしたであろう「粋」に焦点を当てつつ、さらに池波文学と蕎麦を探りたいと思います。お楽しみにw


      

東映© 『仕掛人 藤枝梅安』 2023年公開 監督 河毛俊作
主演 豊川悦治、片岡愛之助

◆其の四 蕎麦の妖怪!? (下)

さて、前回「蕎麦の妖怪」と題して現在の東京都墨田区辺りの昔々の都市伝説「江戸本所七不思議」の中の一話、「燈無し蕎麦」をご紹介しましたが、今回はその下巻、同じ「江戸本所七不思議」の中の一説「置いてけ堀」のお話です。
この話は現代の日本語でもごく普通に使われている、「置き去り」を意味する「おいてけぼりを喰う」の語源でもあります。
この話も、伝承によっていくつかのバリエーションがあり、若干の差異が見られる様ですが、大まかには以下の通りです。

江戸時代の頃の本所付近は水路が多く、魚がよく釣れた。
ある日、仲の良い町人たちが錦糸町あたりの堀で釣り糸を垂れたところ、非常によく釣れた。
夕暮れになり気を良くして帰ろうとすると、堀の中から「置いてけ」という恐ろしい声がしたが、気のせいと無視して帰ろうとすると、さらに大きな声で「置いてけ!」と声がする。この恐ろしげな声は、釣り人が掘りに魚を離すまで続いたという。
また、魚を返さずに逃げ帰り、家に着いて恐る恐る魚籠を覗くと、あれほど釣れた魚が一匹も入っていなかったという話もある。
さらに話は続き、釣り人が魚の入った魚籠を持ったまま家路を急いでいると、途中にある橋の真ん中で、艶やかな着物を着た年の頃17~8歳そこそこと見える娘がしゃがみこんで、袂で顔を隠してさめざめと泣いている。
釣り人が、そばへ寄って「娘さんどうした?訳を話してごらん」と親切に声をかけると、娘はひょいと顔をこちらへ向けた。
見るとその顔は、ナント目も鼻も口もないのっぺらぼう!!
「うわ~!!」釣り人は大声をあげて逃げ出した。いつの間にかとっぷりと日は暮れて辺りは真っ暗闇。けれどよくよく見ると遠~くに小さな明かりが見えるではないか。
それは提灯の燈で、当時の蕎麦屋の屋台の看板「二八蕎麦」の文字が見える。
「やれやれ助かった」釣り人は心底ホッとして駆け寄った。
その慌て様に驚いた蕎麦屋の親父が
「お客さん、どうしたんです?そんなに慌てて」
「水、みずをくんねぇ」  「一体、どうなすったんですねぇ」  「いや、その、おっかねぇもんを見た!」  「おっかねぇもの?」  「ああ、とんでもねぇ おっかねぇもんだ」  「いったいぜんたい何をご覧になったんで?」  「そこの橋で女に会ったんだ!その女の顔が」  「女の顔がどうしたんで?」  「顔が…顔が」釣り人は話そうとするが舌が引きつって言葉にならない。
すると蕎麦屋の親父が、ツルリと自分の顔を撫でて、
「こんな顔だったんですかい?」
見ると蕎麦屋の親父の顔がさっきの娘と同じ、目も鼻も口もないのっぺらぼうになった。
それと同時に屋台の燈も、フッと消えた。

それからどこをどう走ったものか、真っ暗な闇の中を釣り人は倒けつ転びつ、ようようにわが家へたどり着いた。
「おい!おい!ここを開けてくれ!!」女房の名を大声で呼びながら戸を叩いた。
「あら、お前さん、どうしたのさ?こんな時間まで  それにそんなに慌てて」
「おい!だれか追いかけて来ねぇか!?」  「誰もいやしないよぉ どうしたんだよ?」
「おっそろしい目に遭ったんだ!」  「おそろしい目? 一体何がどうしたの?」 
「顔、顔・・・顔が…いや、おっかなくて、とても言えねぇ」
するとおかみさん、急に冷ややかな声に変って
「こんな顔かい?」  その顔はいつの間にか、目も鼻も口もない、のっぺらぼうになってた・・・
釣り人はそのまま意識を失ってしまった。
ふと気がつくと、そこはまだ堀のほとりで、ようやくに陽が傾きかけた夕刻だった。

この話に限らず、昔話の怪談の怖さの要は、その時代の夜の暗さにあると言っていいでしょう。
その当時の闇の深さは、現代の我々にはとても想像することが出来ません。
何故って現代には物理的な闇が存在しないからです。
どんな田舎町にだってコンビニ(そう言えばこののっぺらぼうの話を取り入れたスタジオ・ジブリの人気アニメ『平成狸合戦ぽんぽこ』では、まさにそのコンビニのスタッフや客が全員のっぺらぼうになっているという、現代的なアレンジがされていましたっけw)や、自販機や、街灯くらいあるものです。
車のヘッドライト、民家の灯り、仮にそれらすべてが無くたって、ポケットを探ればスマホの登場w
ね?大げさじゃなく、現代には闇が無いでしょ?
そんな月も星もない夜は、常に暗闇が当たり前な時代だったら、遠くにポツンと見える小さな明かりは、とてつもなく頼りになる道標なワケですよ。
しかもそれが蕎麦屋の屋台の灯りだったら、こんなにホッとするものはない。その気持ちよくわかります。
当時の蕎麦屋の屋台というのは、蕎麦や具や薬味、箸やどんぶり、さらに湯やそれを沸かす火種などを天秤棒で肩に背負い、町々を商って歩く、結構な重労働だったのです。
現代のように、コンビニや外食チェーン店が終日営業したりしているわけではありませんから、こうした行商の蕎麦屋などは、特に冬の凍えそうな夜に出会ったりすれば、とてもうれしいものだったでしょう。
風に乗って聞こえてくる「そばう~」という売り声も季節の風情ですね。

この怪談の肝は、そんなホッとする温かい存在が、突然おそろしいものに変貌するというストーリー展開の巧みさと、現代では理解し難い真の闇の存在です。 それらがまだ存在していた時代だからこそ成り立つものなんですね。
そう考えると、江戸時代と比べて、一見便利で快適になったように見える現代社会は、その便利と 引き換えに、私たち日本人が昔から持っていた独特の感性、「風情」「趣き」「ものの哀れ」といった 詫びさびの感覚、決して英訳出来ない和のココロを、時代のどこかに置き忘れてしまったのかもし れません。
どちらが良いことなのかは分かりませんが…
ひとつ確かなのかは、現代社会は 妖怪たちにとっては、甚だ暮らしにくい世の中だということ。
のっぺらぼうに口があったら、こう言ってるかもねw

「もう、やってらんね~よ」


『本所七不思議之内 置行堀』三代目 歌川国輝・画
出典 Wikipedia

◆其の三 蕎麦と妖怪!? (上)

毎日異常な暑さと全国的な豪雨にコロナ第7波。まったくもって暮らしにくい世の中ですね~
でも、こんな食欲の落ちる猛暑にこそ、涼やかで、栄養価の高い蕎麦を食して乗り切りましょう!!

冷房設備のなかった昔、先人は様々な工夫で夏の暑さを凌いでいました。
風鈴、金魚、打ち水、西瓜、簾(すだれ)・・・
特に日本人はこれらの 音、彩、味など、ある種の想像力で涼を摂ることに長けた民族です。
そんな想像力をフル回転させてヒンヤリと夏を楽しんでいた娯楽の代表が、「怪談」です。
昔は寄席の落語や講談は、『四谷怪談』や『牡丹灯籠』、映画館でも、おどろおどろしい『亡霊怪猫屋敷』、『怪談落とし穴』、『怪談累ヶ淵』(お好きな人には分かるw)などの怪談映画3本立て、ナンてのがよくありました。
テレビも夏になると、ワイドショーが怪談特集をよくやってましたね。『あなたの知らない世界』とかw(これの脚本を書いていた新倉イワオ氏は同時に『笑点』も担当してた、笑いと恐怖、振り幅両極の天才です)
このような怪談を見聞して、庶民は暫しのヒンヤリを楽しんでいたわけですね。

ところでこの怪談と切っても切れない関係にあるのが、日本人には非常に馴染みの深い異形の者たち、{妖怪}です。
私は子供の頃から妖怪大好き少年でした。
我々昭和世代は、テレビ・ラジオや映画の他に、漫画というメディアが当時のエンタメの中で重要な位置を占めていました。そう、アニメというより漫画ですw
1960年代~70年代にかけては、発行部数、経済市場ともに、ブームと呼ぶにふさわしい空前の販売部数を記録して、それまで漫画と言えば「子供のもの」という常識を根底から覆す、社会現象にまでなったものです。
いわゆる紙媒体としての漫画は、それから様々な紆余曲折を経て、現在ではアニメやゲームなどと融合しながら世界に向けて日本を発信するポップカルチャーとなっているのはご存じのとおりですね。
そのかつてのブーム真っただ中の漫画界を支えた才能あふれる作家たち。
手塚治虫(鉄腕アトム)、横山光輝(鉄人28号)、川崎のぼる(巨人の星)、ちばてつや(あしたのジョー)、石ノ森章太郎(サイボーグ009)、赤塚不二夫(天才バカボン)、藤子不二雄(ドラえもん、さいとうたかを(ゴルゴ13)等々の面々の中に、今回のお題目に重要な役割を果たすことになる巨匠、水木しげる先生(ゲゲゲ(墓場)の鬼太郎)がおられます。

ハイ、前置きが長くなってすみません。やっと妖怪ですw 
妖怪と言えば水木先生、水木先生と言えば妖怪、おそらく水木先生が居なければ、「妖怪」はとっくの昔にホコリにまみれ、時代の彼方に忘れ去られていたことでしょう。
水木しげるによって命を吹き込まれた様々な妖怪たちは、令和の世の中にあっても生き生きと跳梁跋扈する存在たり得たと言って良いでしょう。そうそう、ついこの間「アマビエ」がコロナ退散の守り神としてもてはやされたようにねw

ところでみなさんは「江戸本所七不思議」というのをご存じですか?
まぁ七不思議というやつは日本に限らず世界中にありますね。身近なところでは良くあったでしょう?通ってた小学校の「七つの秘密」なんていうの。
理科室の骸骨模型が夜中に歩き出すとか、音楽室のベートーベンの肖像画の目が光るとか(誰かが目の所に画鋲を刺しただけだけど…w)いう他愛ないものなんだけれど、人は古今東西「7」という数が好きらしくて、こういうのは昔々からあったようです。
で、先ほどの「江戸本所七不思議」です。
「本所」と言いますから、現在の東京都墨田区界隈ですね。
この本所で起こったとされる、七つ(伝承によって若干の派内の入れ替わりがあるため、七つ以上の不思議が存在する)の怪異、不思議な出来事をまとめた、言わば元祖都市伝説と言えます。
この七不思議たち、いずれ劣らぬ魅力的な話ばかりで、これまでに二度に渡って映画化されたりしています。以下がその七不思議です。

□ 置行堀(おいてけぼり)
□ 送り提灯(おくりちょうちん)
□ 送り拍子木(おくりひょうしぎ)
□ 燈無蕎麦(あかりなしそば)別名「消えずの行灯」
□ 足洗邸(あしあらいやしき)
□ 片葉の葦(かたはのあし)
□ 狸囃子(たぬきばやし)別名「馬鹿囃子(ばかばやし)」

全部を紹介したいところですが、今回は表題にも上げました蕎麦の妖怪、「燈無蕎麦」について取り上げます。
蕎麦の妖怪と申し上げましたが、厳密にいうと「蕎麦屋の妖怪」と言った方が正しいでしょう。
「燈無蕎麦」、あらましはこうです。

江戸時代、本所南割下水付近には夜になると二八蕎麦の屋台が出たが、そのうちの1軒はいつ行っても店の主人がおらず、夜明けまで待っても遂に現れず、その間、店先に出している行灯の火が常に消えているというもの。この行灯にうかつに火をつけると、家へ帰ってから必ず不幸が起るという[1][2]。やがて、この店に立ち寄っただけでも不幸に見舞われてしまうという噂すら立つようになった[3]。
逆に「消えずの行灯(きえずのあんどん)」といって、誰も給油していないのに行灯の油が一向に尽きず、一晩たっても燃え続けているという伝承もあり[1][2]、この店に立ち寄る、あるいはこの行燈の火をうっかり消そうものなら、不幸に見舞われてしまうともいわれた[3]。
正体はタヌキの仕業ともいわれており、歌川国輝による浮世絵『本所七不思議之内 無灯蕎麦』にはこの説に基づき、燈無蕎麦の店先にタヌキが描かれている[4]。(出典/Wikipedia)

水木先生の手になる妖怪画もこの歌川国輝の浮世絵を基に描かれているので、今回はそちらをご覧いただきましょう。
「灯りなし蕎麦」に限らず、妖怪が幽霊や怨霊などのように、恨みつらみ、呪いといった「負の念」の産物とは違って、恐怖の対象というよりは、どこかイタズラめいた「やられた~」的な憎めない存在のイメージなのは、このように生命のない器物にまで取り憑いて生き生きとしている(有名な唐傘のお化けのようにね)からではないでしょうか?

さてさて、「江戸本所七不思議」にはもうひとつ、蕎麦絡みの妖怪話があります。
次回はその不思議「置いてけ堀」をご紹介します。お楽しみにw


『本所七不思議之内 無灯蕎麦』(燈無蕎麦) 三代目 歌川国輝・画
出典 Wikipedia

◆其の二 ドラマの中のお蕎麦屋さん

そう言えば、最近お蕎麦屋さんを舞台にしたテレビドラマって、あまり見ないように思います。
ラーメン屋さんを舞台に、というのであれば、言わずと知れた石井ふく子大プロデューサーと、 橋田寿賀子大脚本家、泉ピン子大女優の三大トリオの手になるスーパー番組。
1990年から放送され、シリーズ最高視聴率40%を誇る、『渡る世間は鬼ばかり』、通称『渡鬼』が燦然と君臨していますけどねw

でも、実は『渡鬼』にはそのDNAを綿々と受け継ぐ、立派なルーツがあるのをご存じ?
しかもそれこそが昭和が誇る、日本蕎麦屋さんを舞台にした名作ドラマなのです。

それが先述した稀代の天才プロデューサー、石井ふく子氏が、これも昭和を代表する作家、脚本家の平岩弓枝氏を擁して企画、当時頭角を現し始めた新派の女優、京塚昌子を主役に抜擢して大成功を収めた『肝っ玉母さん』です。

『肝っ玉母さん』と聞いて「ああ、見てた~!」とおっしゃるのは、昭和生まれ、きっとアラカン世代の方でしょうねw。

高度成長期真っただ中の1968年から1972年まで、TBS系で全3シリーズにわたって放送され、通算放送回数は全117回。
主演の京塚昌子が、太った体を生かし、少しおっちょこちょいだけれど、しっかり者で情の深い母親を好演して大好評を博します。常時30%前後の視聴率を誇り、最高時には35%を記録。
後のメガヒット作『ありがとう』(水前寺清子主演で、日本の民放テレビドラマ史上最高視聴率56.3%を記録)を生み出し、最近の『渡る世間は鬼ばかり』に通じる人気路線の先駆けとなったんです。

京塚昌子さんと言えば、当時は単なる人気女優というに留まらず、涙もろくてやさしくて、でもいざとなると頼りになる、「ニッポンの正しいお母さん」をシンボライズした時代のアイコンですらありました。
一世を風靡した存在でしたが、ある時期からテレビ等でも見かけることが少なくなり、やがて全く姿を見せなくなってしまいました。
後でわかったことですが、京塚さんは役柄のイメージと違ってかなりの酒豪で、一晩にウィスキーを三本空けたこともあったそうです。そのせいもあったのか糖尿病を患い、闘病の末、64歳の若さで急逝されたとのことです。

老舗の日本蕎麦屋「大正庵」を女手一つで切り盛りしながら、二人の子供を育て上げ、日々奮闘する五三子を主人公に、 山口崇  長山藍子 沢田雅美 千秋実 山岡久乃 乙羽信子 佐野浅夫 といった名優が脇を固めるキャスティングは、『渡鬼』にも受け継がれていますよね。
私も当時、子供ながらこのドラマのファンで、毎週欠かさず見ていましたが、その中で今でもはっきり覚えているし印象的なシーンがあります。

五三子の長男、一(山口崇)の恋人で後に彼と結婚して大正家の嫁になる綾(長山藍子)が、大正庵を訪れるのですが、挨拶もそこそこに「お腹が空いた」という。
この綾、女性雑誌の編集長という設定で、高学歴で古い体制が嫌い。男なんかに負けるもんか!と頑張っていて、ちょっと鼻持ちならないところもある、という当時の感覚ならではのバリバリのキャリアウーマン(この言い方も古いけどw)で、老舗蕎麦屋という、ある意味古き佳き伝統体質を守っている五三子とは対極的なスタンスに在り、、当然のことながら時として衝突します。

ベテラン職人の長さん(佐野淺夫)が気を利かして「何か作りましょうか?」と声をけると、躊躇なく「鍋焼き蕎麦、頼むわ」と臆面もなく口にする。
「鍋焼き蕎麦???」鍋焼きうどんは知ってるけど、「鍋焼き蕎麦」なんて聞いたこともない…
当時小学生の私でさえ、「あんな鉄鍋で蕎麦を煮たりしたら伸びちゃうじゃん!」と思ったものです。
大正庵の中はギョッとしたような部妙な空気になります。
しかしそこは苦労人の長さん、若旦那の恋人の無茶ぶりなオーダーにも、
「いや、綾さんのご注文だ。鍋焼き蕎麦ってやつもきっとあるんでしょう。」と笑顔で大人対応。
繊細な気遣いと腕前で、前代未聞、渾身の「鍋焼き蕎麦」を差し出します。
夢中で食べている綾に「いかがです?」と長さんが尋ねると蕎麦をほおばったままの綾は事も無げにあっさり
「ええ。お腹空いてるから、何食べてもおいしいわ。」
あらららら、やっちまったな~ 小学生の私も画面見ながらハラハラドキドキだったのをよく覚えています。
大正庵の中の空気は当然凍り付き、五三子は思わずキッとキツイ視線を綾に向けるのでした。w
まぁこの展開を見ると絵に描いたような近い将来のドロドロバッキバキの嫁姑大戦争を容易に彷彿とさせるわけですが、さにあらず、石井ふく子組のホームドラマはそういう粘着質な暗さ冷たさは目指していないのです。
この段階ではどう見てもゴジラ対キングギドラ的な壮絶な戦いの始まる予感にどうなることやらと視聴者に危惧を抱かせながら、蕎麦屋を舞台に対峙するこの二人の女は、意外や意外!やがてお互いを理解し、信頼し、本当の母娘のように変化してゆくのです。
五三子は時代の変化や新しさへの順応を、綾は老舗の風格とそれを守る人々への尊敬の念と奥ゆかしさを、それぞれ学んでゆく・・・
日本中どこにでもありそうな、歴史ある蕎麦屋とそれを取り巻く人たちの日々の他愛ない、しかし波乱万丈な日常を明るく描きながら、『肝っ玉母さん』は、ファミリーの成長の物語だったのではないでしょうか?
だからこそ、当時高度成長期などいうドタバタに踊らされた生活の中で、それでも明るい未来を信じて上を向いていたであろう庶民のココロをつかんでいた・・・
そう、当時最強の媒体を誇っていたテレビが、時代に見せてくれた「夢」だったのかなぁ


©TBS
『肝っ玉母さん』主題歌 歌/佐良直美
https://youtu.be/qqlMR9u55Gw

◆其の一 蕎麦って何歳?

四季折々の風景、風情を愛でつつ、あるいは様々な歳時、祭事、あらゆる祝いの席で、蕎麦は 時や場所を選ばずに、食す人を笑顔にしてくれます。
身内贔屓じゃありませんが、ある意味蕎麦は日本人にとって、最も親しみ深い食のひとつと 言えますよね。
ところで蕎麦は一体いつ頃から食されていたのでしょうか?
一方日本人にとって、最も長く、親しみ深いお付き合いである穀物が、米であることは、誰も が認めることでしょう。
米はインドアッサム地方から中国雲南省というものが有力な説で、15000年前には長江中流 域で稲作の形跡が見られ、これが世界最古の稲作の歴史だそうです。
これに対し、日本の蕎麦の歴史は西暦723年、今から1300年ほど前まで遡る、奈良時代以 前と言われています。
しかし一説にはさらに昔、高知県内で9000年以上前(?)の遺跡からソバの花粉が見つか り、当時からソバが栽培されていたと考えられており、さいたま市岩槻区でも3000年前の 遺跡からソバの種子が見つかっています。
面白いでしょう?
つまり、その説が確かならば、日本人にとって馴染み深い蕎麦も、意外なことに元をたどれ ば大陸伝来の食べ物で、その発端は米に匹敵する長い長い道のりの元にある、ということに なるのですよ。

さて、信頼に足る研究によれば、蕎麦の日本への伝来は奈良時代以前であることが確実な のだそうです。
しかし『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月 2日)付けのソバ栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載していて、当時はまだ、「曾波牟 岐(蕎麦/そばむぎ)」(『本草和名』・『和名類聚抄』)あるいは「久呂無木(くろむぎ)」(『和名 類聚抄』)と呼ばれていたソバが積極的に栽培されたとする記録は見られず(なお、『和名類 聚抄』では、蕎麦(そばむぎ)を麦の1種として紹介している)、さらに鎌倉時代に書かれた 『古今著聞集』には、平安時代中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎 麦料理を振舞われて、「食膳にも据えかねる料理が出された」として、素直な驚きを示す和 歌を詠んだという逸話を記しています。
これは都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかった ことの反映とも言えます(ひどいなW)。
この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えてわずかに栽培する言わば非常食的な雑 穀だったと考えられおり、蕎麦の地位はめちゃめちゃ低かったんですねぇ。
なお、蕎麦を「そば」と読むようになった初出は南北朝時代に書かれた『拾芥抄』で、蕎麦と 猪・羊の肉との合食禁(食い合わせを禁ずる例)を説明しています。ナンでかねぇ?多分消化 不良との関連かと…
古くは粒のまま粥にし、あるいは蕎麦粉を蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)や、蕎麦 焼き(蕎麦粉を水で溶いて焼いたもの。麩の焼きの小麦粉を蕎麦に置き換えたもの)などと して食したと言われています。
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわ れ、蕎麦掻きと区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれました。現在は、省略して単に蕎 麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域もあります。
この蕎麦切りの存在が確認できる最古の文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の 寄進記録で、同寺での1574年(天正2年)初めの仏殿修復落成に際しての寄進物一覧の中に 「振舞ソハキリ 金永」というくだりがあり、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在したことが 推定されていて、庶民への普及は18世紀(元禄時代)であったと推定されている他に蕎麦切 り発祥地として中山道本山宿(現在の長野県塩尻市宗賀本山地区)という説(『本朝文選』)、 甲斐国の天目山栖雲寺(現在の山梨県甲州市大和町)説(天野信景著『塩尻』)、筑前国の萬 松山承天寺(現在の福岡県福岡市博多区)説(『饂飩蕎麦発祥之地碑』もあるようですね。

さてさて、蕎麦関にする、あれやこれや古今東西の様々を、気軽に無責任にw語ろうという 『蕎麦四方八方話』、第一回は「蕎麦って何歳?」と題してその歴史を辿ってみましたが、いか がでしたでしょうか?
結論を言いますと、ここでお話ししましたように、そもそもどの時点を私たちにとっての「蕎 麦誕生」とするかによって蕎麦の年齢は異なってきます。
従ってその答えは、賢明なる読者の皆さんそれぞれの判断に委ねたいと存じます。とか言い つつ。軽く逃げた感が漂いますが…w

今後も、蕎麦のことをいろんな角度から、極力堅苦しくなく、おしゃべりしていこうと思って おりますので、よろしかったらお付き合いください。
なお、ここでのいろいろな学説や、理論、推察、考証等については、筆者独自の見解が含まれ ることもあり、諸説ある中の一説ということで、鷹揚にご容赦くださいませw

ではまた 次回、ごきげんよう