蕎麦が好きで、時代劇、時代小説が好き、という方なら、絶対に避けて通れない偉大な作家。
言わずと知れた巨匠、池波正太郎先生です。
江戸本所菊川、鐘ヶ淵、品川台町、と聞いてすぐに合点がゆく方は、筋金入りの池波フリークでしょうね。w 
この三か所は、それぞれ池波先生の代表作の主人公、火付け盗賊改め方長官、長谷川平蔵、稀代の達人剣客、秋山小兵衛、凄腕仕掛人の鍼医、藤枝梅安の住まいがあった場所です。
私は、特に時代小説や歴史小説のファンというわけではありませんが、池波作品にだけは中学生の頃から惹かれておりました。
理由は単純、テレビや映画で映像化されて大ヒットした、誰もが知る作品の原作だからです。
『鬼平犯科帳』、『剣客商売』、『仕掛人・藤枝梅安』の三シリーズは特に人気が高く、半世紀以上の長きに渡って繰り返し映像化されているため、主人公を演じる俳優も多岐に渡ります。
特に1972年秋からテレビ放映が開始された『仕掛人・藤枝梅安』を原作とする『必殺仕掛人』の主人公、鍼医の凄腕殺し屋、藤枝梅安を演じた俳優は、初代の緒形拳を始め、田宮二郎、小林桂樹、萬屋錦之介、渡辺謙、岸谷五朗、豊川悦司(2023年公開)と7人に上ります。
池波先生が原作の作品はシリーズ一作目の『必殺仕掛人』だけなのですが,、このあと同シリーズは『必殺仕置人』『必殺仕事人』など、必殺シリーズとして現在に至るまで放送される長寿番組になっているほど。水戸黄門や、大岡越前、徳川吉宗の様に実在の人物を主人公にした時代劇を除くと、これは稀有な例です。

私は、池波作品の魅力はやはりその高い娯楽性にあると思っています。
表現が単純すぎて誤解されることを恐れずに申し上げれば、純粋に小説として面白いのです。
作品を読むと、氏が机の上だけで書いていないことが伝わってきます。
現代にはもう存在しない「江戸」を舞台にしながら、その筆の端々に氏が江戸の市井を歩き、眺め、またある時は食して、材をとっていることがよくわかります。
机に向かい、様々な文献のページを繰って、時代考証などにばかり時を費やしていただけでは、あの空気感を醸成出来るはずはありません。
少々乱暴な言い方をお許しいただければ、氏の小説は、いたずらに小難しくないのです。
時代小説、歴史小説の大家、巨匠と称される方々は他にもたくさんおられると思いますが、こと江戸を描かせたら、池波正太郎ほど作品の隅々にまで漂う「江戸臭さ」を醸し出す作家は無いと、私には感じられるのです。
氏の作品の主人公たちが、かくもイキイキとして感じられるのは、彼らが現実に江戸の町に生きているからです。そしてその江戸の町に、外ならぬ池波正太郎も生きているからです。
千の文字を費やすよりも雄弁に、場面の転換や人物の心中を物語る一本の行間は、安楽椅子作家に書けるものではありません。
冒頭に記した「長谷川平蔵」「藤枝梅安」「秋山小兵衛」の住まい。これを良くご存じの読者ならば、ほとんどの方に頷いていただけると思うのですが、
池波作品の大きな魅力の一つに酒食シーンの描写があります。
氏は作品の中で、鬼平や梅安、彦次郎、秋山父子に実に様々な旨いものを食べさせています。

鰹の刺身、鰹飯、深川飯、兎汁、鮪トロの炙り焼き、軍鶏鍋、大根と浅利の小鍋だて、大根と油揚げの鶏出汁小鍋だて、白魚の卵とじ、芋酒、芋膾、味噌田楽、菜飯、冷やし味噌汁、なめろう、焼き鮎入り湯豆腐、蝦蛄の煮つけ 等々・・・池波作品には、枚挙に暇がないほど、そして名前を聞いただけでは、現代では馴染みのない品まで含めて、でも旨そうなものがズラリと並びます。
池波作品中の酒食シーンには想像以上にファンが多く、それぞれのシリーズ別に、登場する料理の作り方と周辺蘊蓄を語るレシピ本(『鬼平料理帳』、『梅安料理ごよみ』等)が出版され人気を博しているほどです。

さて、そしてその池波作品中には頻繁に「蕎麦」が登場します。
それも池波先生は実に様々な方法で、主人公たちに旨そうに蕎麦を啜らせている。
これは、とりもなおさず池波先生ご自身が大の蕎麦好きだからに外なりません。
そりゃそうだ、東京は浅草生まれ浅草育ち、チャキチャキの江戸っ子ですものw
作品中の蕎麦のシーンには、やはり池波流の蕎麦の美学が溢れています。

鬼平犯科帳の中で長谷川平蔵が食べる蕎麦に源兵衛橋の北詰にある「さなだや」という店の「小柱の掻揚げ蕎麦」というのがあります。これが鬼平シリーズで初めて長谷川平蔵がそばを食す場面らしいです。小柱というのはバカガイの貝柱のこと、軟体部は青柳と呼ばれる鮨でもお馴染みの貝ですが、ただ「天ぷら蕎麦」でなくて、これの掻き揚げの乗った蕎麦って、いかにも普段から町を歩き回って、旨いものを見逃さない池波先生らしいチョイスw 

また一方では、こんな記述もあります。

「下谷の車坂町代地に[小玉屋]という小さな蕎麦屋がある。
いかにも頑固そうな五十がらみの亭主と女房と、一人息子と三人だけでやっているのだが、蕎麦は太打ちの黒いやつで、薬味も置いてなく、流行の貝柱のかき揚げを浮かせた天麩羅蕎麦などはもちろんのこと、種物は、いっさい出さぬ。
ただもう、太打ちの田舎蕎麦一筋にやっているので、常客といえば、ごく限られてしまうわけだが、
「十日も口にせぬと、思い出すというやつだ。」と、妻の久栄にもらしたことがあるほどに、長谷川平蔵は小玉屋の蕎麦を好んだ。」(『鬼平犯科帳・蛇の目』)
池波作品には、この三シリーズだけでも蕎麦の登場する場面が多くあり、その描写は蕎麦好きならずとも垂涎必至です。

次回は江戸っ子がことさら大事にし、氏もまた著作の中で大切にしたであろう「粋」に焦点を当てつつ、さらに池波文学と蕎麦を探りたいと思います。お楽しみにw

      

東映© 『仕掛人 藤枝梅安』 2023年公開 監督 河毛俊作
主演 豊川悦治、片岡愛之助